エデュケーション

何かの本の記事で目にしたことですが、英語の「教育」を示す「education」には、educeという「抽出」とか「検出」といった意味が含まれる、という話です。出版物の歴史において印刷技術が先に発達した欧米の百科事典にみられるように、日本だけでなく、世界共通の分類方法が整然と決められていないと、本も、図書館も、博物館なども、最近のインターネット上の検索も非常に不便だったと思う。 第一仕舞い方が違っては大変だ。

江戸時代の書物や資料は棚に積み上げて整頓してたようで、背表紙や、もしかしたら、目次や索引などもなく、検索に不便したのではないでしょうか。それに比べ、西洋文化の図書館や博物館にみられる整理整頓法は、書物を一般に普及し学校を解放し、すべての人が知識を学ぶ大きな力になったことだろう。欧米ではそれら社会共通のルールを身につけるさせることが「教育」だったのでは。日本は、それらのルールを上から作法を強いる「教育」が中心だったような気がする.。

学生時代に米国のデザインの通信教育を受けた人の話。教材の最初のページには、デザインで使うであろう下絵となる写真の収集と分類方法のページが用意されていて、その次には画材となる筆や鉛筆、ペン、画用紙やキャンバスなど様々な種類が紹介され、その表現方法や使い方などがしっかり説明されてたそうです。スタートからしてデザインに対する導入方法がこうも違うかと感心したと話しています。

この通信教育で学んだことが、後に手にした「マック」の画面上に見事に再現されていたのには驚いたそうで、鉛筆や消しゴム、ペンキ缶。さらに、当時、フィルムに印刷されたパターン集があり、裏面がのり付けされていて、紙面にカッターで切って貼付けて利用していたものと同じパターン集が画面下に用意されていたのですから、旧来の教材が時代の最先端を行くコンピューターへと連なる一貫性を感じたそうです。

コンピューターの最大の能力は、中国語で「電脳or計算机」と呼ぶように、資料を仕舞い込み、必要に応じて素早く、きれいで楽しく「検出」することである。インターネットの検索、本体内の検索など、それなりに便利にはなってきたが、理想的なインターフェースにはまだまだほど遠い。秘書や執事のように、会話で命令したことに応じてどこからか見つけ出してくれる「ナレッジ・ナビゲーター」が登場するのはいつか?

『テキスト、データ、音楽、画像、動画ファイルを管理して、操作したり、閲覧できる機器』と定義づけられるiPod「環境」はそれなりにもてはやされてはいるが、自分で探し出す手法において、日本のメーカーに一歩先んじたくらいだろうか。それでも、20世紀に取り残された感じの国産家電メーカー品より全体に数歩先を行っている。日本国内においてさえソニー製品がiPodに追い抜かれたことを思うと、「技術大国日本」という言葉にむなしさを感じます。「技術」にはソフトウェアが含まれていなかったという「間違い」に気づいた人はいるのでしょうか。